祖母の死を受けて想うこと
つい先日、身内を亡くしました。
父方の祖母で、99歳の大往生でした。
病気もしたけれど、最期は老衰というかたちで安らかに眠ることができたので、悲しみよりも安堵の気持ちが強いです。
もう何年も孫の私のことは分からなくなっていたけれど、亡くなる前にひ孫の顔を見せることができたし、悔いはありません。
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思い返してみると、33年生きてきて親族の死というのは経験がありませんでした。しあわせなことですよね。
けれど、いまだに死を受け止められない人がいます。なぜなら、私にとっては、いなくなってしまっただけで死んではいないから。
今こうして、その人を思いながら『死』と書くのも違和感があります。だって私は死んだなんて思っていないから。側からみると、現実逃避してる奴にしか見えないかもしれません。
じゃあなぜ受け止められないのか?
事故で、遺体がみつかっておらず、『死亡認定』されたからというのが大きいと思います。
当時、感情を吐き出して泣きたいだけ泣いてしっかり悲しんでいたら、今こんな気持ちでいることはなかったのかもしれません。実感がわかなかったというのもありますが、あの頃は事情が複雑で、感情を押し殺す理由の方がたくさんありました。
死を受け止めるってどういうことなんだろう。
死を乗り越えるってどういうことなんだろう。
まだ、思い出話にはできそうにありません。
これ以上のことは、いまは書く気にはなれないけれど…あの事故から来年で10年も経つのだと思うと、そろそろ気持ちを整理して前に進まなきゃとも思ってます。
こんな風に思ったのは、センセーションカラーセラピーを受けたのがキッカケでした。それについては、気が向いたら書くかもしれません。
いつか、乗り越えられる日がくるのかな。来てほしいような、来てほしくないような、複雑な気持ちです。
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今日は祖母の火葬です。
しっかり見届けたいと思います。